子供の頃から、変わった子供で、「先生」の話を素直に聞かない「ひねた子供」だったようで、教師の話を聞くよりも、図書館で本を借りて読むことのほうがはるかに納得がいった。
そのことは、長じても変わらず、40歳を過ぎてからはますますそれが昂じて、ニュース報道や新聞報道まで「素直」には受け取らない。人の話を理解するよりも、自分の【納得】が先で、偏屈といえばそうかもしれない。
先日、出先で「何の本を読んだら良いか?」と聞かれ、適当なことを応えてしまいました。正確に言えば、適当なことを応えたのではなく、小説家や作家の名前といくつかの本の題名を応えたのですが、どうも相手は「直球」の質問をしていたのです。
「今の日本やこれからの日本を考えるために・・・」
「これからの企業のあり方を考えるために・・・・」
「これからの生き方を考えるために・・・・」
前後の会話からすると、そうした意味合いでの問いかけであったような気がします。しかし、こちらに気持ちとしてその準備がなく、おまけにじっくりと話す時間もなかったため、思わず「好きな作家」や「好きな本の題名」を口走ったという意味で、適当に応えてしまったという気がしないでもない。
ましてや、質問をしてきた相手は、私からすれば「人生の先輩」にあたる年代の方なので、福岡のマンションに帰り着いてしばし失礼を反省をした。その「人生の先輩」は、別に私の好きな作家の名前を聞きたかったわけではないのです。
いまさら「ネタ本」をばらすのは気がひけるのですが、恥を忍んで題名を書けば、この3冊ということになるでしょうか。
人口から読む日本の歴史 鬼頭 宏
東と西の語る日本の歴史 網野善彦
「日本」とは何か 網野善彦
いずれも、「講談社学術文庫」に所蔵された本ですが、ここ数年、ここ数ヶ月、手放したことがない。学術書なので、細かい図表が付いていたり表現も難解な部分も少なくはないのですが、「教科書」で教えられたことが「嘘」であったことや、「テレビ」や「新聞」が伝えることが「まやかし」であることを詳細に教えてくれる。
つまり、世間に流布されている「常識」がいかに薄っぺらなものであるか、あるいは「明確な間違い」であるかを、これでもかこれでもかと語りかけてくる。
実はよほど強力に意識しておかなければ「常識」という大嘘に絡め取られてしまうのです。
「人生の先輩」に対して、正確にはこの本の「題名」を応えるべきだったと反省をしています。
恥を忍んで・・・・。