とじき雑感

再録 熊の息子、旅立つ

    先ほど書いた「熊の息子は熊」の正木健太くんが2008年に「妻子を北海道に残し」米国に旅立った時に書いた私のブログの文章です。日付を見ると2008年6月1日なので、今から5年前に彼は新しい世界を目指したのでした。(その時にすでに彼の視界にはモンゴルが入っていたようです)

     

    th_00612「熊の息子」旅立つ!
    夕方、長崎からJR特急「かもめ」で福岡へ帰る。
    そろそろ疲労が重なって、車中、ほとんど意識が無い。

    帰り着くなり、携帯電話を取り出し、「熊の息子」へ電話をする。
    「熊の息子」とは、私がコンサルタントとして駆け出しの時代からお世話になっている北海道にある企業の専務のことで、社長の息子にあたる。
    私が畏敬の念を込めて「北海道の熊」と呼ぶその企業の社長には随分とお世話になった。単に「建設業界」のことだけではなく、広く【世界】を教えてもらった。国家の庇護の下に成り立つという「不幸な」生い立ちを持つ【北海道の開拓の歴史】を教えてくれたのはその社長である。平取町二風谷にある「重要有形文化財」の二風谷アイヌ文化博物館で「チセ」と呼ばれるアイヌ家屋で純粋のアイヌ料理を食する、などという生涯忘れえぬ体験までさせてもらった。

    その「熊の息子」が、一年間アメリカを放浪する、という話はブログに書いた。
    その後、電話とメールのやり取りの中で、アメリカへ行く前に一度博多へおいで、と連絡をしたところ、アメリカへ行く前日に博多へ来てくれるという。前日から長崎で用件があって、夕方からしか会えないのだが、と言ったが構わないという。土曜日だったが、弊社のスタッフも集まってくれた。私にしてみれば、妻子を日本に残しアメリカへ向かう青年へのささやかな「壮行会」のつもりだった。

    30代の青年たちが交わす会話は、まぶしい。
    アメリカ放浪を決意した経緯。それ以前の中国をはじめとする海外視察から受けた強烈な印象。今後の自分の生き方と今後への密かな決意・・・・。弊社のスタッフを含め、彼らは、意識の中だけではなく、実際の経済行為としての外国を知っていて、「外国」と「国内」を同じレベルで理解している。「ロシア」「中国」「モンゴル」「ベトナム」「アメリカ」「ブラジル」と彼らの話は尽きることを知らない。
    初めて会った北海道の青年と九州に住む青年たちの宴は4時間を越えてなお終わらない。
    弊社のスタッフが、若い頃親との対立を経て外国へ飛び出した熊本のある社長が彼に送ったエールとメッセージを何度も伝える。
    それはそれは、不思議な「博多の夜」でした。

    翌日、連絡をしていたわけではないが、福岡空港でチェックインの手続きを済ませたあと、彼の携帯に電話をした。私は「羽田」へ、彼は「成田」へ向かうのだが、出発時間が近かったのだ。すでに搭乗待合室にいた彼と落ち合い、ANAのラウンジで短い会話をした。
    前夜と打って変わって、彼の表情は引き締まっていた。
    それはそうだろう。今から一年間、一人で外国に住むのだ。
    「無理をしておいで」
    別れ際に彼にそう言った。
    「これからの自分のために、一生懸命、無理をしておいで」
    握手をして、振り返らずにラウンジを出た。
    私があと20年若ければ、31歳だ。うらやましい、という気分がなくもない。今からでも遅くはないのではないか、という思いもどこかを掠める。

    品川のホテルから東京の空を眺める。
    彼は、今「アメリカ」行きの飛行機の中だ。
    「熊の息子」は、北海道から直接成田へ向かわずに、出発の前夜に博多まで来てくれたのである。

    「子熊」で終わるのか、偉大なる父親を越えるのか。今はまだ分からない。

    「昭和のおじさん」は、34歳の青年の旅立ちを福岡空港で見送った。

     

    あれから5年、あの時の「子熊」がと考えると、何やら先ほどのメールが胸に熱い・・・。

     

     

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