今から5年ほど前、2008年に書いた文章です。
40代の後半あたりから、ものの考え方が少しずつ変わってきたような気がする。人生を70年とか80年とか考えれば、半分を過ぎ、自分の行く先がおぼろげながら想像することができる。
若い頃のように「夢」や「理想」を追いかけるだけの単純な【体力】や【気力】が薄くなるにつれ、世俗にどっぷりとつかり、甘いも辛いも嗅ぎ分けて、日に日に「ずるいおじさん」になっていくのが良く分かる。感情に任せて爆発することもなく、我慢することを覚え、「平凡」の大切さが少しずつ分かるようになってくる。
綺麗な言葉を使わせてもらえば、【成熟】と言うのかも知れないが、もっとも自分が勝手にそう思っているだけで、普段一緒に仕事をしている「うちのスタッフ」に言わせれば、「変人の戯言(たわごと)」と笑われるのがおちかもしれない。
「枯れて」いて「経営コンサルタント」など勤まるはずはなく、時代の最先端を走っているくらいの「錯覚」が必要なのです。
そういう意味からすれば「錯覚」の塊のような私が【成熟】などと言い出せば、みんなが笑う。
しかし、「歴史」に対峙しようとするとき、以前と接し方が随分と違う。「歴史書」や「歴史小説」から何事かを学ぼうとするとき、若い頃のように「生き方」にこだわらなくなって来た。以前ならば、登場人物や興味のある人間の「生き様」や「生き方」に惹かれていたのだが、歳を経るに従い、その部分がぽろぽろと抜け落ちてきた。
むしろ歴史的背景や文化的な側面、世界史上の位置づけなど、「人間」から「背後の景色」に興味が移ってしまったような感じなのです。
弥生期の鋳型と一致 香川の巴形銅器、福岡で鋳造 九州と四国の交流を証明 九大埋蔵文化財調査室
香川県さぬき市で明治時代に出土した巴形(ともえがた)銅器3点(東京国立博物館所蔵)が、福岡県春日市の九州大学筑紫地区遺跡群で1998年に出土した弥生時代後期(二世紀)の鋳型で鋳造されていたことが分かった。九州大埋蔵文化財調査室が17日、発表した。
同調査室によると、弥生時代の青銅器で鋳型と製品が一致した例は銅(どう)鐸(たく)以外では初めて。祭祀(さいし)などに使われたと考えられる青銅器が、九州から四国へ運ばれていたことを示す物証といえる。(西日本新聞)
香川県には仕事でよく行く。春日市は福岡市に隣接する町です。両方とも良く知っている。
福岡から香川に行くには、新幹線で岡山まで行き、そこでJRを乗り換え、瀬戸大橋を越えて香川入りをする。交通インフラが発達した今でも、九州と四国のアクセスは快適とはいえない。
まして「弥生時代」といえば、今から2000年近く昔のことなのです。
おそらく今の福岡から大分を経て、船で四国に渡り、愛媛を抜け、香川にたどり着いたのでしょうか。明治時代に発見された「青銅器」と1998年に発券された「鋳型」が一致する偶然と、そのことを知れる時代に生きているささやかな喜びがなくもない。
誰が作ったのだろう・・・・。
誰が運んだのだろう・・・・。
2000年の後に、「製作された青銅器」と「製作した鋳型」が一致することを、誰も予想などはしていない。2000年近く、「歴史」は沈黙を守り続けてきていたのです。それが「現代」になって、発見されることを素朴に驚きたい。
飛行機もなく、新幹線もなく、自動車もなく、国道もない時代に、それらが運ばれた事実だけを素直に心に留めたい。
弥生時代の推定人口をご存知だろうか。
この日本列島に、100万人くらいしか人が住んでいなかった時代の話です。