とじき雑感

曖昧さとの戦い

    s_512594_pejzazh_zakat_pole_1920x1200_(www.GdeFon.ru) (1)個人的に、ソチ冬季オリンピックが終わってからテレビの位置を変えて、なるべくテレビを見ない環境を整えました。代わりに今までテレビのあった場所にスピーカーを置き直し、パソコンやタブレットの「ネットラジオ環境」を整えました。そうなるとまぁ本をよく読むようになります。メモもきちんと取るようになります。当然、少々物事を考える時間が確保出来るようになります。そうなると、以前の「テレビ」「ネット」情報に偏っていた情報源まで変わってきました。

    ある日、ラジオニュースを聞き流していたら、国会で「武器輸出三原則」の見直しが始まったという内容のニュースが聞こえてきました。その中で野党の議員が「武器という表現はあまりにも生々しい言い回しなので、防衛装備品という表現に変えたらどうか、という意見を述べ、それに与党が応じ【武器】ではなく【防衛装備品】に表現をかえることにした」という話を聞き、思わずため息をついてしまいした。
    日本人の特質である「物事を荒立てない」「曖昧な言い回しで争い事を避ける」「明確な表現を避ける」といういい意味でも悪い意味でもある「あいまい文化」の発露がまたもやなされた感じがしたのでした。
    【武器】という明確な言葉を使うからこそ、本質的な話や考察が進むのですが、それを【防衛装備品】と言い換えた瞬間に、人を殺す道具であるという明確さが失われます。【敗戦】を【終戦】と言ってしまったために、戦争や戦後の認識がどれだけうやむやになったことか。
    実はこうした曖昧さや言い換えは、組織の中にもあります。本来「解雇」と言わなければならないことを「リストラ」と言い換える。会議の中で「本音」と「建前」を使い分ける。結果、陰に回って足を引っ張る。自分の所属する組織の悪口を言いふらす・・・。伸びようとする若い可能性を潰して回る・・・。

    日本人の多くは「泥棒に入られた」と表現します。他の国ではこうした表現は使わず「泥棒が入った」と言います。
    「女房に逃げられた」VS「女房が逃げた」
    「財布を取られた」VS「財布を取った」
    「先生に叱られた」VS「先生が叱った」・・・

    曖昧さは、日本人の特質です。島国という「限られた土地(空間)」で人が生きて行くために獲得した民族の知恵です。ただしその功罪を理解しておかなければ【本質】を見失います。ましてや組織のトップであれば、曖昧さが組織の混乱の遠因になりかねないことを知るべきです。現在の日本において、国家の存亡を議論すべき人間たちが「ゆるゆる」であることを認識しましょう。彼らにリーダーたる資質はありません。
    【武器】は【武器】であることを明確にしなければ、本質の議論は進みません。【防衛装備品】と曖昧に表現した途端、国のありようを議論する場の土台に霞がかかります。

    自分の所属している組織はどこに向かおうとしているのか。いや、どこに進めるべきなのか。個人や組織から曖昧さを削り落としていかなければなりません。誰かに連れて行ってもらうのか、自分たちで引っ張って行くのか。

    テレビがなくなって、少々尖り始めた今日このごろのとじきです。

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