性善説・・・・・人の本性は善であり)人を信じるべきだという考え方
性悪説・・・・・人の本性は悪であり)人は疑ってかかるべきだという考え方
という風に理解されがちですがこれは誤解で、正確にはこういう意味です。
性善説・・・・・人は生まれつきは善だが、成長すると悪行を学ぶ
性悪説・・・・・人は生まれつきは悪だが、成長すると善行を学ぶ
つまり、倫理に関して「学ぶ」という姿勢を視点を替えて言い表していると考えた方がいいようです。前者は、中国の「孟子」が唱えた説であり、後者は「荀子」が唱えています。
さて、組織の中でもそうした二つの事象が発生します。
例えば、子供が橋から落ちようとする時に、思わず声を上げ、助けようとしない人間はいません。目の前で起る「他人の悲劇」に対して無関心でいられる人間はいません。ところが、それが集団になったとき、多くの人は不意に無関心になってしまいます。声を上げず、助けようとしない。
「誰かが助けるだろう・・・・」
「個人」と「集団」の間には、こうした【魔がさす】瞬間があります。
先日、ある介護施設でのイベントに招待されて時のことです。突然の雨でその野外イベントが中止されました。雨の中での高齢な入居者の方々への対応振りや、その後のイベントの片付けぶりなどを間近なところで見ることが出来たのですが、それは【プロ】の仕事でした。高齢の入居者を濡れさせない。濡れたあとのケアの素早さ。ひとりひとりの入居者への目配り。その後の集団としてのまとまりは、見事としか言いようがありませんでした。
ところが、それが終わった後の、散会に関する集まりの直後から、集団として「別の顔」が出現しました。つまり、後は誰かがするだろう、という無関心さの中で、わがままな個人が顔を出し、先ほどの見事な一体感がまったく感じられない。それは一瞬の変化でした。
経営者がいなくなった途端、幹部がいなくなった途端、その集団の「変質振り」は、直前に素晴らしい【プロの姿】を見ていただけに少々ショックでした。
「個人」と「集団」の間には、「性善説」と「性悪説」のように【魔がさす】瞬間があります。しかし、本当に強い組織はには、その【魔がさす】ための「隙」がありません。組織としての理念やそれを伝えるべき幹部の姿勢や、そうした「隙」を作らないための教育訓練により、少々のことでは緩まないのです。
組織の中の「不平」や「不満」や顧客からの「クレーム」や顧客の「減少」などにはすべて理由があります。経営環境の変化には全社一丸で立ち向かわなければなりません。その全社一丸になるためには、こうした「個人」と「集団」の特質を理解した組織内での取組みが不可欠です。
「性善説」「性悪説」どちらを信じるかではなく、組織にはそうした二面性があることを知っておいてください。
油断をすると、すぐに【魔がさす】ことがありますから。