今年の年始の話です。
三重県の高速道路の主要なパーキングエリアやサービスエリアが、
その理由は、毎年恒例の暴走族の新年集会を警戒して、
私は高速道路をよく使うので分かるのですが、
実はこうした【馬鹿基準】による社会規制は少なくありません。本来「まっとうに生活している普通の人々」を基準にせず、馬鹿を基準にして物事を考える。考えるだけならまだしも、人々の行動や自由を損ねてまで馬鹿に気兼ねする、という風潮です。
様々な植物や動物の表紙で知られる子供たちの「ジャポニカ学習帳」から、ついに昆虫の写真が消えました。何でも、教師や親から「気持ちが悪い!」という意見が増え、徐々に部数を減らし続け、2012年から昆虫の写真を使わなくなったというのです。地球上でもっとも数量的に多い生物は、昆虫です。そのことを前提にして教育は行われるべきで、本質から離れた脆弱な精神では生きてはいけません。ここにもまた【馬鹿基準】としか言いようのない社会現象があります。
「マッチが使えない子供たち」の話も小学校の先生から聞きました。
「親がたばこを吸わず、家に仏壇がなく、オール電化で育った子どもたちはマッチを知らない」というのです。おまけに小学校四年生から始まる理科の実験で使う「アルコールランプ」は危険なので、ビーカーの加熱はバーナーを使うので、相当な年齢までマッチが使えない子どもたちがいるといいます。さて、昆虫を怖がり、マッチも使えないような子どもたちを作り出すことが本当の教育と言えるのかどうか・・・。
保育所や幼稚園での幼児の声や公園での子どもたちの声が「騒音」だという人々がいます。子どもたちの声がうるさすぎて生活に支障をきたしているということで訴訟まで起きているようです。しかしながら、子供がうるさいのは当たり前の話で、そのことに腹を立てていてもしょうがない。ましてや自分たちも子供であった時代があったはずなのだが、それを忘れて口に泡して叫びまくる姿は異様に思えます。
「実際に幼稚園の隣に住んだこともないやつが勝手なことを言っている」わけではありません。私の実家は幼稚園の真正面にあって、3メートルの道路を隔てて暮らしていました。子どもたちの叫び声や運動会前の太鼓の練習などしょっちゅうでしたが、それを「騒音」と感じたことはありません。
幼稚園によっては、子どもたちに「ネズミさんの声で話そう」と言う表現でひそひそ話をさせるという話を聞いて何やら怒りが湧いてきます。
「そんなにうるさきゃ、引っ越せよ!」
という気分はおかしいでしょうか。「ネズミさんの声」という話を聞いた時には何やら泣きたい気分になってしまいました。
秋田県の男鹿半島に伝わる「なまはげ」という伝統行事が「幼児虐待」に当たるということで消滅危機だという話を聞きました。福井県では「あっぽっしゃ」という同様の伝統行事が中止になったといいます。
毎年大晦日に「親の言うことを聞いてるか!」「宿題は済ませたか!」と鬼の扮装をした大人たちが各家庭を周り、子どもたちを「しつける」行事ですが、これが幼児虐待に当たるのかどうか。子供時代にはひとつかふたつ「怖いもの」が必要です。親や大人や、自然や暗闇などその怖さが、社会の怖さや生きて行く上での慎重さにつながります。
「自由で民主的な時代にそぐわない」「子供がPTSDやトラウマになったらどうするのか」「戦前の権威主義の象徴」などというなまはげ廃止賛成論をネットで見かけて呆れ返ってしまいます。なまはげごときでPTSDにかかるようなガキが、振りかかる火の粉をかき分け、過酷な競争社会の中で生き残って行けるかどうか。そもそもそうした発言をする人々は本当の意味での「たくましさ」について考えたことがるのかどうか。そのうち、獅子舞も子供が怖がるので幼児虐待だと叫びだす「馬鹿」が出てきそうです。
こんな文章を書いている私そのものが【馬鹿基準】だ、という声が聞こえてきます。しかし、こうした時代の空気を「明確」にしておかなければ、組織の中にも堂々と【馬鹿基準】が横行します。
ある組織のアンケートで「給料を上げて欲しい。休日を増やして欲しい。残業をゼロにして欲しい。僕らの意見を尊重して経営をやって欲しい」というものを見つけました。自分の不甲斐なさを棚に上げ、組織を客観的に理解もせず、まず何も努力もせずに主張だけを声高に言い募るものです。
さて本日の文章は【馬鹿基準】との個人的戦闘開始宣言です!!