大分県日田市で講演が終わって案内された宿の名前が「山陽館」。
天領・日田には、江戸時代「咸宜園」という日本一の私塾があって、その創始者・広瀬淡窓と江戸時代の歴史家・頼山陽は縁が深い。その縁にちなんだ宿の名称であることはすぐに分かりました。
「咸宜園」の凄みは、全国68の国々の内、66カ国から人々が学びに来たという自由闊達さにあります。80年間の開塾期間中、約4800人の塾生を輩出し、その中には女性もいたといいますから、どれほどの平等が満ち溢れていたかが分かります。「藩校」などというどこか押し付けがましい空気など全くなかったのではないか。まさに【天領・日田】の真骨頂とでも言うべき塾でありました。
その「咸宜園」を「日本外史」を著した頼山陽が訪れています。ちょうど数日前、その頼山陽の三男で、安政の大獄で斬首された「頼三樹三郎」について調べていたので、「山陽館」という名前に思わず反応してしまいました。
宿に着くなり、窓からこんな風景が見えました。筑後川の上流である三隈川に秋の夕暮れが迫っていました。窓を開けると、川のせせらぎが聞こえてきます。西郷隆盛より3歳年上の頼三樹三郎は、安政の大獄で吉田松陰などとともに斬首されました。武士ではなく、京都の儒学者ですが、安政の大獄で首を切られた14人の中に入っているところからすると、父親譲りで気性の激しかった人物なのでしょうか。享年が34歳です。不思議な事に、幕末期に命を落とした人物たちはこの頃の年齢が少なくありません。近藤勇も土方歳三も34歳で亡くなっています。
一晩中、川のせせらぎが聞こえる部屋で目覚め、朝散歩をしました。
一晩中聞こえていたせせらぎの仕組は、二本の川が合流する場所の「落差溝」でした。大きな三隈川の合流地点では、本流だけではなく、両サイドからも水を落とす仕組になっていました。おまけに、合流地点では「可愛い河童」が川守をしている。
なんとものどかな【天領・日田】の朝でした。
食事を終え、普通なら高速に乗って「鳥栖〜熊本」と移動するのですが、秋の気配に誘われて、「阿蘇山」経由で移動することにしました。
九州はまさに「豊穣の時」を迎えています。
阿蘇から見下ろす風景もまた、豊穣です。
時間があれば、阿蘇ロープウェイで火口まで登りたいところでした。
ある有名企業の「ハーブ園」では、向日葵が咲いていました。
九州の、秋の風景です。