とじき雑感

「甲賀」の夕暮れ 〜現在と過去のつながり〜

    朝起きると、「改善隊司令官殿」から、コメントで【指令】が来ていた。
    「彦根城ですか。小生も行きましたよ。結構汗でますよ!天守閣からみると地域戦略における緊要地形の勉強になります。是非天守閣まで登ってください」
    思わず、パソコンに向かい「敬礼」をする。
    昼からの仕事の関係もあるので、ぐずぐずしているわけにもいかない。手早く荷物をまとめて、駅のコインロッカーへ荷物を押し込み、彦根駅から彦根城へ向かう。10時前なので、観光客は少ない。普段から「自転車」に乗っているので、「改善隊司令官殿」の脅しを舐めていたのですが、「戦国時代」に丹精を込めて武将が作った城だけのことがあって、やはり結構汗が出ました。
    何しろ「命がかかった構造物」なので、楽々と敵を寄せ付けては困るのです。当時であれば完璧なジジイである50歳を越えたおっさんの足は多少もつれる。実は「土木屋」の出身なので、【石積マニア】なのです。あちこちの「城」へ行くたびに「石垣」の写真ばかりを撮っています。
    一般的に、石材は1m3(1立方メートル)あたり2,6トンほどの重量がありますから、50センチ四方の石でも楽に300Kgから400Kgの重量があります。今から400年ほど前、現在のように油圧系の機械がない時代に数百Kgからトンを超す重量の石をどのように切り出し、運び、積み上げたのか。なおかつ、そうした重量の石積みを積み上げて、400年の間「沈下」させない基礎の仕組みがどうなっているのか。土木屋の目で見てみると、飽きることがない。同時に、出来上がった構造物の背後で、誰が作らせ、誰が作ったのかという「仕組み」について考え始めると、座り込んで考え始める。残酷な武将が、領民を奴隷のようにこき使って建てた、などということはまずありえない。全国に広がった城造りの背後にそうした「暴虐」があったという記録もない。であれば、作らせる側は、「城を作る目的」を明確にして働かせていたはずで、そのマネジメントに関してコンサルタントとして見ても、飽きることがないのです。すでにパソコンの「ピクチャ」には各地の城の「石積み」の写真がずいぶん溜まっています。

    前夜は、滋賀県の「米原商工会」での講演会で、今日は「湖南市商工会」で講演でした。湖南市は、石部町と甲西町が合併して出来た市ですが、元々は「甲賀郡」でした。「甲賀郡」すなわち、【甲賀忍者】の里なのです。

    甲賀流(こうかりゅう、こうがりゅう)とは、近江国甲賀の地に伝わっていた忍術流派の総称。山を一つ隔てた場所に存在する伊賀流と並び、最も有名な忍術の一派として知られる。なお、「甲賀流」という名称の単一の流派は存在せず、あくまで甲賀に伝わる複数の流派があわさって甲賀流と呼ばれている。今の滋賀県甲賀市(こうかし)、湖南市にあった。普段は農業をしたり、行商をしたりして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き、工作活動に励んだ。手妻に優れると評され、忍術の流派の中でも薬の扱いに長けており、その名残として甲賀には今も製薬会社が多い。

     

    こうした歴史的な事実を知って、電車に乗ると何やら周りの風景が気になる。駅を降りた瞬間、手裏剣が飛んできたらどうしよう。「伊賀忍者」を連れていくべきか。
    冗談はさておき、商工会の方にお話を聞くと、交通インフラの整備により、随分と製造系や流通系の業績が伸びているといいます。新東名が開通したために、大阪へ行くよりも名古屋のほうが近くなったという話も聞きました。愛知県までは途中岐阜県をはさんでいるはずなのですが、大阪より近いなどということは、やはり現地に行かなければわからない話で、同時に今までの常識とは違う「ねじれ」が起こっていることの証拠でしょうか。

    講演が終わり、夕方、駅で電車を待っている間に、甲賀の里に夕闇が広がって来ました。
    地図の上でしか理解していなかった「甲賀」と「伊賀」の関係がリアルにつながりました。服部半蔵の系譜につながる「松尾芭蕉」は、甲賀から山ひとつ隔てた伊賀の出身です。古代から「政治中枢」に近いという地理的条件から生まれた「忍びの者」たちの姿がおぼろに浮かび上がるような、穏やかな夕暮れでした。
    さて、今夜は京都に泊まっています。明日は、京都から香川に向かいます。「讃岐・丸亀」は「京極氏」の領地でした。その「京極氏」は【佐々木道誉】の流れを組んでいます。各地域に独自に残る文化は、こうした大名の系譜とその土地の持つ風土によって形作られています。
    「現在」が、実は「過去」からの系譜によって成り立っていることを今一度再確認する旅でもあります。

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