「組織活性化プログラム」は弊社が勧めるプロジェクト型のコンサルティングです。プロジェクトなので、当然「リーダー」を決めなければなりません。
ある日、久留米の企業トップと誰をリーダーにすべきかの打合せをしている最中に「正義の人をリーダーに据えたい」という発言をされました。思わず手帳にその言葉を書き留めたのは、今までそうした表現で次世代リーダーの資質をした人がいなかったからです。もちろん、その社長のいう「正義」とは、社会的正義という意味ではなく、組織にとって正しいと思われることを敢然と行う、いわば「企業正義」のことです。リーダーを誰にするかは、組織の今後に深く関わることであり慎重に行う必要があるのですが、「正義の人」という言葉には、その経営者が持っている強い意志が感じられました。
専務、降格!
別の日に、長く付き合いのある社長と、今後の組織改善の打合せをした後、「それでは詳しい日程などは専務の方と打合せをします」と私が言うと、その社長が打合せをするべき別の人間の名前を挙げられ、こう言いました。
「○○は専務から部長に降格しました」
「えっ!」と思わず声を上げてしまったのはすでに8年近いお付き合いの中で、専務が部長から常務へ、常務から専務へというプロセスを十分に知っていたからです。「何かありましたか?」
「いや、別に何があったということではなく、私が育てられなかったということです。3年間随分指導したつもりだったのですが、最後まで現場から離れられなくて、経営が分からなかったようです。私の責任ですな」
確かに現場叩き上げの専務なので意味は理解出来ました。現場に精通した人間は、基本的に現場が楽なのです。かつて建設会社で現場員から常務までしてきた私には、専務の困難さと社長の歯がゆさがよく分かる。しかしながら「専務、降格!」というのはまさに英断という他なく、同時にどの経営者にでも出来ることではないということも分かります。
自責と他責
専務を降格させた社長はまさに「正義の人」です。人間である以上、それなりの人情と思いやりを持っています。ましてや企業経営ならば、体面ということもある。しかしながら、その社長は見事に「組織正義」を貫いたのでした。
同じように、愛知県のある企業の二代目会長は、7年近いお付き合いの中で、3人のグループ企業の社長の首を切りました。コンサルタントとして社長解任までのプロセスも分かっているのですが、それでもその会長の決断は果断なものでした。そして、その会長もまた自責の人でした。グループ会社のトップを解任したあと、長く自らが会長職と社長を兼任して、組織の立て直しを図りました。
「まぁ、選んだ私の責任ですから」というのもその会長の言葉です。
正義は立場によって変わります。何が正義であるかという定義も時代変化の中では難しいものです。しかし、企業経営の中ではどこかでその正義を経営トップが判断しなければなりません。選ぶ正義と切る正義。どこまで行っても経営者はその困難さから逃れられません。
有能な経営者たちの共通点は、人事ですら自責として捉えていることです。誰にでもチャンスはありますが、資質は誰にでも備わっているわけではありません。その資質を見抜けなかった自分や育てられなかった自分を認識するところから始まる組織の成長もあります。
「景気が悪いので」「政治が悪いので」「取引業者が悪いので」「○○が悪いので」・・・
と口に出した瞬間、自責は遠くなります。いつも原因は他責にあるのではなく自責にあります。
今一度、御社の「企業正義」、考えてみませんか?