常識を疑え!

情報過多時代を生きる 〜指先で大丈夫?〜

    情報量と伝達速度についていささか反省するところがあります。

    Windows95の本格的な日本での普及は1996年からでした。逆算すると20年前のことです。その前の「Dos-v」という仕組みと比べると格段にUI(ユーザインタフェース)が向上してあっという間にコンピュータ社会が進みました。従来の「プロセスを踏まえて」というリズムや「一度立ち止まって考える」という手順が一気に薄まり、素早く結果が手に入れられるようになりました。そのおかげである部分や分野の生産性は驚異的に伸びて、仕事のやり方を変えてしまいました。コンピュータを導入したために事務的人員の削減が進みました。単純作業など人間がするよりもコンピュータに任せた方が、早くて正確だということも現実化しました。

    しかしながら、そこで失われたものも少なからずあって「プロセスが分からなくても結果が出る」という弊害も生み出しています。社会や組織のいたるところで「ブラックボックス化」が進み、原理や原則を知らなくても構わない、という風潮が起こっています。特にコミュニケーションなどという人間関係の根幹に関わるような要素まで「メールで済ます」という以前では考えられなかったような現象を生み出してしまいました。遅刻や欠勤をメールで連絡するだけではなく、その宛先が上司ではなく同僚に対してであり、メールの末尾に「課長に伝えて」などということまで現実に起こっています。

     

    スマートフォンの走りである、iPhoneの発売は2008年でした。タブレット端末の幕開けを告げたiPadの発売は2010年です。つまり、スマホの普及は8年前から、タブレットの普及は6年前なのですが、このふたつの新しい情報機器の出現でもう一段階新しい課題が生まれてしまいました。

     

    ひとつは「情報過多」という問題です。あまりにも大量な情報に気軽に接することが可能となったため、明らかに多くの人びとが情報の波に飲まれ、息切れを起こしています。本当に必要な時代変化を伝える情報だけではなく、芸能人のスキャンダルやどうでもいいようなうわさ話に熱中しています。

     

    もうひとつは「情報速度」の問題です。量だけではなく、次から次に押し寄せる情報に一喜一憂しているうちに、一番重要な「考える」というプロセスが抜け落ちてしまっています。

     

    そもそも情報とは「それを使って何をするか」という一次的なもので、大切なことはそれを自分たちにとって重要な順に並び替え、活動や行動の参考にするということなのです。しかし、大量に素早く押し寄せる波のような情報モドキに圧倒され、活用することなく情報の中に立ち竦んでいる人々をよく見かけます。

    ネットの中に答えがある、と信じている若者に会いました。さまざまなサイトで情報を覗きそれをパソコンに収集していかにも自分は勉強をしているという話を自慢気にするのです。会話をしていて、確かに話題は豊富なのですが、どれも誰かが言っていたような話なのです。

    「で、自分としてはどう思っているのか?」 と尋ねても返ってくる返事は、どこかで聞いたような話です。  自分で考える、というのは結構パワーがいることです。ましてやぞれを自分の言葉にすることはかなりしんどい。そして「信念」は情報から生まれるのではなく、歯を喰いしばった経験からしか生まれません。

    しかし昨今の「情報過多」と「情報速度」に毒された環境の中では、本当の意味での経験と挫折に裏打ちされた「信念」が生まれづらくなっているのかもしれません。情報化社会を否定するつもりはありませんが、目の前で繰り広げられている「情報モドキに翻弄される若者たち」を見て、いささか気になってしまいました。

    知らなくてはならない情報と知る必要のない情報があるのです。大切なことは「自分で考えること」です。情報化時代が始まって20年。一度自分の環境を見直す必要はありませんか。

     

    平成26年度の総務省 情報通信政策研究所の発表によれば、日本人のネット利用時間の平均は83分、20代では151分でした。

     

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